予め敗北した世代

30年前に死んだ思想史家・橋川文三は、晩年の三島由紀夫に最も大きな影響を与えた同時代の思想家である。

その橋川が処女作のテーマにした昭和十年代の日本浪曼派、特にその中心だった保田與重郎に「なぜイカレタのか?」、素朴な疑問、純粋な興味を覚える一方で、「そんなことにどんな意味があるのか?」という自問もなくならない。(もし僕が、橋川に惹かれないか、逆にその研究者だったら、違ったろうが。)

そんな問いの一方で、橋川が自らの思想的出自と世代的刻印をデビュー作で自問したことに呼応して、自ずと問い返されるのが、いわば僕自身の思想的出自、そして世代的刻印である。――もう僕は橋川が死んだ年齢に近いのだが、今まで真剣に考えてこなかったし、この問題意識を共有する本も読んだことがない、と思う。

手元に図書館から借りて、まだ返していない本がある。
『70年代 若者が「若者」だった時代』(金曜日、2012年)。

この本を作った中心メンバーは僕とほぼ同世代。団塊世代ないし全共闘世代より少し後の年齢である。ゴシップ的な内容から始めると、冒頭の座談会に出ている中山千夏をウィキってみると1948年生まれ、ということに驚いた。弱冠20歳から8年間、テレビの「お昼のワイドショー」で青島幸夫や柴田錬三郎などと渡り合い、参議院議員に転出したからずっと年上に見えたわけである。

もう一つのゴシップ的話題は、松本清張が自宅に創価学会の池田大作会長と共産党の宮本顕治委員長を呼んで、両組織の共同戦線作りを模索したということ。これを語っているのが、セゾングループのトップだった辻井喬(堤清二)である。

さて、1970年代前半の大事件、連合赤軍とあさま山荘について分担執筆しているのが、当時まだ生まれていなかった雨宮処凛である。それなりに意義はあるが、この人選は苦肉の策のように見える。当時若者だった世代の筆者がまず書くべきなのに、誰も書いていないのだ。

しかし、これは、思うに、かなり苦しい、大変なことである。40年余りも経っているのに、その影響が現在にも及んでいるのだろう。事件から今までの生き方を踏まえ、現在の立ち位置を明確にして、事件を評価するのは、職業的物書きともあろう者にとって、容易ではない。

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以上のようなことは気になるが、僕自身のことを書けば、あさま山荘のとき、大学受験の真っ最中だった(ついでに言えば、安田講堂のときは高校受験の直前だった)。

断続的に見たあさま山荘の10日間のテレビ中継から受け取ったのは、何をどうやっても(膨大な人的・物的資源、圧倒的な国民の支持に支えられた)国家権力には「必ず負ける」ということ。自分自身が戦ったわけではないが、反抗する者の限界を見せ付けられた。

その一方で、たった5人で、機動隊を先頭におく国家権力と10日間も対峙することで、権力を国民が見守る白昼のTVカメラの前に引きずり出し、相対化したことは、凄いことだと思う。

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