日本は移民を送り出す国だった3

ミクロネシアへの旅に出たとき、著者の橋口氏には「特にあてはなかったがどの島にも、必ず戦争と関係のある日本人が居るという確信めいたものはあった」。

1996年の取材時72歳だった秋永正子さんは1925年、3人姉妹の末っ子としてポナペで生まれた。お父さんが日本人で、お母さんはポナペの酋長の娘だった。20歳で終戦になり家族5人で日本に引き揚げたが、25年後の45歳でポナペに戻ってきた。

ポナペ島はかつてサイパン島同様にスペイン、ドイツ、日本が統治していたが、戦後はアメリカの信託統治領を経て、1986年に他の島(コスラエ、トラック、ヤップ)と併せてミクロネシア連邦として独立。サイパン島と異なり、幸運にもアメリカの戦略構想からはずれ、独立できた。

佐賀県で教員をしていた正子さんのお父さんが、南洋貿易の社員としてポナペにやってきたのが1914年、26歳の時だった(注:「南洋貿易」をググルとヒットし、社員20人。現社長の挨拶には、1883年に『榎本武揚の肝いり』で創業。『その苦楽は想像以上のものがあり』、現在も『発展途上』とある。ウ~ン、凄い会社だ)。

――つまり、明治の前半、日清戦争よりはるか以前から、日本は南方にも進出政策を進めていたのだ。

戦後、米軍は南洋の島々で現地人と家族を持っている日本人(特に沖縄出身者)が多いことに驚く。一時はそのまま居住を認める案も浮上したが、日本の影響力が再び強まることを恐れ、兵隊に限らず民間人も全員引き揚げさせる方針を決定した。正子さんが一たん父の国に引き揚げたのはこの決定によるものだった。

こんな一節がある。「日々の暮らしに困窮していた沖縄の人たちにとってポナペは天国みたいな島だった。スイカやパパイヤは食べながら口から種を飛ばすだけで、また生えてくる…」(沖縄県の読谷村史で著者が読んだという)。

大らかに育った正子さんや現地生まれの家族は、日本で日本人のようには働けない。あくせくしないで済むポナペが恋しくなるのは、当然だろう。

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