日本は移民を送り出す国だった2

1998年の取材・撮影当時71歳だった佐藤仁さんという男性は、ロシアのカンスクという、カザフスタンに近い中央シベリアの町に住んでいた。北海道に生まれ育ったが、12歳の時、一家で樺太に渡った。その頃の樺太には40万人余りの日本人や多くの朝鮮半島出身者が住んでいた。18歳で終戦。引き揚げ命令の対象は子どもと女性に限られた(成年男子は貴重な労働力だったのだろう)。何度か日本への密航を試みたが失敗する。

働いていた工場のメーデーの祭で全員と酒を飲み、運転は佐藤さんの仕事で、帰路に事故を起こした。この事故でソ連人少佐が死亡、4年の刑を受け収容所送りになった。樺太からウラジオストック、ハバロフスク、イルクーツクを経て、トカチ収容所という他に日本人のいない収容所へ。(当時、満洲や樺太から50万人以上の日本人がシベリアに抑留され、うち5万人余りが、日本では経験しない極寒や飢えなどから、日本に戻ることなく収容所で死亡した。)

4年の刑を終えた佐藤さんが収容所を出る時に渡されたのは、3キロのパンと2匹のニシン、お金14ルーブルだった。カンスクの町で、仕事仲間で戦争未亡人で子持ちのロシア人女性と結婚した。36歳の頃、日本への帰国まであと一歩だったが、直前に帰国を思いとどまらせた奥さんは14年後に亡くなった。1991年に50年ぶりに一時帰国したが、ふるさと夕張も面影が分かったのは駅ぐらいだった。

佐藤さんは、酒を見るたびに「(あの時)酒を飲んでいなければ日本にいただろうに」と思う。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック