松本健一『日本のナショナリズム』1

先日、松本健一『日本のナショナリズム』(ちくま新書、2010)を読んだ。

松本氏の著作については、1970年代の北一輝ブームの中でデビュー作(『若き北一輝…』(1971))を買って持っていたが、読了しないままに終わった気がする。その後も長い間、良い読者ではなかったが、ここ1、2年で何冊か読んだ。

表題の新書は、民主党が政権に就く少し前の頃、幹部だった仙石由人との長年の友人関係から同党の中堅議員らに行った連続講義が元になっている。

昨年亡くなった松本氏の思想営為に敬意を表しつつ、傍線を引いた箇所などから引用したい。松本氏の長年の持論、思想営為の結晶が含まれている。

・この福沢路線(「脱亜入欧」)を第二次世界大戦の敗北後に継承したのが、福沢研究の第一人者であり戦後日本のアカデミズムを代表した丸山真男であった。丸山は東京大学におけるわたしの恩師でもあるが、彼は学者である以上に、戦後日本に民主革命を夢見た思想家であった。
 丸山の思想は、昭和20年(1945)8月15日に民主革命があった、という仮構の上にかたちづくられていた。(中略)この日、日本国民は初めて「自由なる主体」となった、と。
 しかし、わたしの考えでは、そんな「自由なる主体」としての日本国民は、丸山真男の夢中以外、どこにもなかった。第一、「日本軍国主義に終止符」を打ったのは、日本国民ではなかったのである。

・北(一輝)が日本のナショナリストであることは、まちがいない。しかし、ナショナリストであるがゆえに、彼は中国のナショナリズムを正当に評価したのである。
 北は、第2次世界大戦が始まる5年前の2・26事件の首謀者として、死刑に処せられた。しかし、彼はその事件より前に、日本が対米英露華の世界戦争(=大東亜戦争)を起こせば「破滅」に至る、と予言していた。日本の国家権力およびアカデミズムは、この北を戦前は「国賊」と呼び、戦後は「右翼」「ファシスト」と呼んで、評価しなかった。そこに、わたしの40年に及ぶ北一輝研究が始まったのである。

・こういった北一輝評価の問題、「対支21カ条の要求」、ひいては大東亜戦争に至る「日本の失敗」を、戦後の日本人はあまり直視しなかった。いや、直視することができなくなったのである。
 なぜなら、敗戦後、日本はアメリカによって「あの戦争」を大東亜戦争と呼ぶことを禁じられ、太平洋戦争と呼ぶことを命じられたからだ。太平洋戦争という呼称なら、「あの戦争」は太平洋を舞台に、日米が戦ったという歴史認識になり、その歴史認識からは日本が中国・アジアを侵略したという認識が欠落する。

・ 明治時代の憲法制定以後、天皇の国家的位置づけが初めて問題になったのは、明治39年(1906)のことであった。すなわち、日本が日露戦争でかろうじて勝利をおさめた直後である。(中略)天皇は国家運営の機関であり、それゆえにこの機関をうまく使わねばならない、という考え方が明治39年に明確に出てきた。この天皇機関説の運用を打ち出したのは、美濃部達吉でも他の帝大の憲法教授でもなく、斉藤隆夫と北一輝であった。

・天皇は日本の支配原理であるから、その名前を使えば革命も起こせるという発想が、北一輝のもっとも畏るべきことであった。北の考えでは、明治維新は近代的な民主革命であって、維新以来の日本は、本来的に「天皇の国家」ではなく「国民の国家」である、それがいま失われている、というものだったからである。それゆえ、その「国民の国家」を実現するためには、天皇の名を使って兵士=国民のクーデターを起こして民主革命してしまえばいい、と。

(つづく)

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