「喪失」としての高度成長

未読のものも含め図書館から借りている本の1冊が藤原新也『日本浄土』(東京書籍、2008)。読んだのはごく一部のみだが。

この本も含めて多くの著作に含まれるさまざまなテーマのうち、藤原新也という表現者が運命的に抱え、僕自身共感するのが、「喪失」としての高度経済成長ということである。これは同時代を生きた日本人なら程度の差はあれ味わったことだろうが、僕はこの著者においてほど強く感じることはない。

僕自身の藤原新也との出会いを振り返ると、ニューヨークから帰国した1990年代初めの頃だった。天邪鬼のせいでベストセラーになっていた頃は読まなかった『東京漂流』、特にその冒頭の幼少年期を振り返った自伝的な章を読んだとき、僕の中にも強く共振するものがあった。

藤原氏は北九州の門司港の大きな旅館に生まれ、育った。時代の変化の中でその旅館の経営が傾いて廃業することになり、旅館の数寄屋造りの日本建築に巨大な鉄球が繰り返し打ち込まれ解体される。――それは高度成長のために古き良き日本を日本人自身が破壊していることの象徴のようなシーンだった。

やがて藤原氏はインドをはじめとするアジアへの旅に出る。そこには日本からは失われてしまった高度成長以前の世界が依然としてある。その旅は日本にはなくなった原風景を求める旅でもあったという趣旨のことを藤原氏が述べていたと思う。

自身の中年期、バブル期以降の藤原氏は基本的には日本に拠点を置き、日本・日本人を見て写真を撮り、文章を綴っている。その見ている日本の現実は、高度成長期の延長上にあり、一貫して大手資本、マスメディア、政府などにより画一化が日本全体を覆いつつある光景といえる。あとがきから引くと――。

<過剰な情報の流入は風景のみならず人間の心をも画一化し、大規模店舗の展開はささやかに息づいてきた土地のモノの流通や人の情を消し去り、中央と直結した土建行政によって古きものは跡形もなく破壊され、いずこにおいても無感動なツルリとした風景が目の前に立ちはだかる。>

そんな中で、「歩くこと、歩き続けること」で「失われつつある風景の中に息をひそめるように呼吸をしている微細な命」に出会うことがある。そうした細部の集合体を藤原新也は「日本浄土」と呼んでいる。

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