昭和天皇の戦争責任

先日買った本のうち、川村湊『戦争の谺(こだま) 軍国・皇国・神国のゆくえ』(白水社、2015年8月)を読了した。

300ページ余りのこの本のうち、冒頭2章では広島の原爆ドームが史的遺跡として保存されるようになった一方で、長崎の浦上天主堂がそうならなかった経緯や、ベストセラーや映画になった「ああ、長崎の鐘が鳴る」の原作者・永井隆医師に対する批判など、70年前に終わった戦争をめぐる、さまざまな事件の裏面や作品に対する批評などが書かれている中で、最も大きな問題に対するストレートな批判が、「昭和天皇の戦争責任」に触れた箇所である。引用すると、

<大日本帝国憲法では、交戦権をもち、宣戦布告する権利は、日本軍隊の大元帥の立場にあった天皇にあった。(中略)「大東亜戦争」の開戦も、対外的には昭和天皇による宣戦布告、国内的には開戦の詔勅の形で宣言されたのであり、終戦(敗戦)も、ポツダム宣言の受諾、終戦の詔勅として発表されたのである
(中略)
 戦争は、第一義的には交戦権をもち、宣戦布告ができる者、それをした者が全責任を負うべきものである。だが、日本の戦後はその最高責任者を、すなわち昭和天皇裕仁を免責することから始まった。(中略)もし、日本の戦後社会に「歪み」や「ねじれ」といったものがあるとすれば、その淵源はそこにあるはずだ。(中略)戦後の「無責任体制」の「ねじれ」や「歪み」を象徴しているのは、まさにこうした最高責任者としての昭和天皇が免責されるという、超法規的な時代・社会の出発点にある(後略)>

日本国家としての米英に対する宣戦布告や、自国民に対する開戦・終戦の詔勅。これらほど日本国家にとって「正式」な文書はないだろう。それらの文書に明記され、署名・押印した唯一の人物が、戦勝国=連合国≒アメリカ≒マッカーサーにより「免責」される! 常識的論理としても法理としても極めて当を得ている正論が、そうした論理を上回る権力を有する「超法規的」政治力によって屈服させられる。

そうした理不尽が日本だけでなく、世界の現実だったし、いまだにそうなのだろう。例えば、イラク戦争開戦の口実のデタラメ…。

この記事へのコメント

さきと
2015年09月14日 23:57
国民が議会で話し合って「戦争する」って決めたときに、天皇が「ダメ」って言ったらやばくない?それができるなら逆に国民が「戦争しない」って決めても「戦争しなさい」って命令できることになっちゃう。実際には追認するしかないわけで、そんな人に全責任を負わせるの?

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