「歴史」と「体験」

橋川コミュ管理人かまいちさんの計らいで著者にお会いできた、橋川文三の前半生の伝記『橋川文三 日本浪曼派の精神』を昨年11月に上梓された宮嶋繁明氏の前著『三島由紀夫と橋川文三』を再読した。

傍線を引き始めると、以前と同じ箇所にまた引くことも多かった。
この本には確かに三島と橋川以外も含めて引用が多いが、そのために、いわば、かなり狭いパースペクティブからではあるが、「戦後思想史」的な面もある。小熊英二『民主と愛国』ほど浩瀚ではないが、小熊氏の本より同時代の雰囲気や時代背景、思潮を的確に踏まえているような気がする。

この本の「補論二、橋川文三と戦後」に次のようにあった。

<橋川個人の取り組むべき著作分野の選択は(中略)どうして、いわゆる文芸評論などの批評を含めた文学や哲学ではなく、歴史に拘ったのだろうか。
「(略)いかなる体験も伝達されえないことがその特質であるのに対し、歴史とは、まさに地道な伝達可能性を本質とするからである。(略)体験の本質はその非合理性にあり、歴史の本質はその合理性にある。」
(中略)信じて学ぶことができ、自分の認識力を展開してくれるのは、歴史だけではないだろうか、という領域に達したと思われる。>

引用中の最後の一文は宮嶋氏の橋川観であり、かつ恐らく歴史観だろうが、いざ考え始めると、「果たしてそうか?」という疑問も成り立つ。ここには「体験」とは?「認識」とは?「歴史」とは?という疑問がありうる。

本当に、体験は伝達不可能で、歴史は伝達可能なのか?
では、体験を言葉なり文章なりにしたものを他人が読んで得たものは、伝達されたのでなく何なのか?

歴史については、伝達不可能なら歴史学という学問も成立しないことになって、歴史学者にとってまずいが、歴史は個々人にとってのみ、その認識において、あるいはその語りにおいてのみ存在するという立場もありうる。

――後者の立場では、いわば「共同主観的存在」としての歴史の在り方がニグレクトされているのだろう。とすれば、「体験は伝達不可能」という立場も、固有の個人的体験が語られるなり、書かれるなりして、表現されたときの「共同主観的存在」としての「体験」の在り方が、正に同様にニグレクトされているのではないか?

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