柔道の理想

『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』より:

・東京五輪柔道重量級の金メダリスト猪熊功は、東海建設社長だった2001年、倒産の直前に自刃した。
・講道館の創始者、嘉納治五郎は、当て身(打撃技)を乱取りに取り入れようと、特性グローブを作ろうとしたり、沖縄空手や合気道を講道館柔道に取り入れようとした。
・嘉納は五輪招致のためにIOC委員として世界中を飛び回ったが、必ずしも柔道を参加させる気はなかった。
・プロレスの空手チョップは破壊力はなく、見せ技。力道山のオリジナルでなく、アメリカのプロレス界で「柔道チョップ」ないし「柔術チョップ」として大流行していた。
・木村政彦の生涯戦績の決まり手の順は、1腕がらみ、2大外刈り、3絞め技、4抑え込み技、5一本背負いの順。
・講道館柔道の寝技は、投げた後に上から多いかぶさるだけだが、高専柔道や武徳会の柔道は、自分から寝て相手の下になり前三角絞めや関節技を極めるか、相手を下から返して抑え込むのを基本としていた。
・1885年設立の武徳会は、1942年、東条内閣の下で講道館等も包摂した政府の外郭団体の下で統合された。
・講道館は、戦後、GHQによって、それまで拮抗していた高専柔道と武徳会が消滅したことで漁夫の利を得た。その際に全柔連とイコールのようになった。講道館は、元来は、一流派にすぎず、嘉納が、天神真楊流と起倒流を学んで起こしたもの。
・戦後、講道館は、その時々に、「柔道はスポーツである」と「柔道は武道である」とを言い分けているうちに、主張に一貫性も説得力もなくなった。

・市販の力道山vs木村政彦戦映像は、空白の6分間がある。著者の増山氏が映像と文字資料、証言等を付き合わせた結果、得た結論は、最初に力道山が右ストレートを木村の顎に入れて仕掛ける。木村の前蹴りの反撃に対し、力道山は目を落として右手で押さえる。顔を上げて何か怒り、木村に殴りかかる。後ろへよろけた木村の頭を引き下げ、右張り手、左張り手を繰り返す。(中略)レフェリーに力道山の反則を訴えている木村に、力道山は張り手やシューズでのキックを見舞う(事前に決めたルールで木村は裸足)。…

・戦争のため木村が柔道を離れ、戦後は食うためにプロ柔道やプロレスに入っていた間に、柔道界は高専柔道と武徳会が消滅し、かろうじて「スポーツ」を名乗ることで生き延びた講道館柔道は、国際化の果てに、1961年、ヘーシンクに敗北する。東京オリンピックはその3年後。この間、木村は母校拓大に戻って柔道を指導するようになる。
・この間は空前の「寝技空白の時代」だった。ヘーシンクには、講道館と対立した武徳会出身の猛者たちが稽古を付けていた。
・木村の師、牛島辰熊によれば、「寝技は立技の従ではない。立って寝て強いのが柔道の理想である」。

・昭和50年代、日本のある地方都市で「地下」格闘技大会が開かれ、優勝したのは、木村の弟子、岩釣兼生だった。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック