力道山vs木村政彦

今、図書館から借りている本の1冊が、増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社、2011年)。

2年前にこの本が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した後の雑誌インタビューで、著者が熱っぽくそのエッセンスを語っていたのを読み、当時住んでいた地域の公立図書館から借りようとしたが、2度とも「19人待ち」といった状態で、予約を諦めたことがあった。ただ、2段組700頁のこの本を、買ってまで読む気はなかった。

それが、今回は最寄の図書館で検索すると各分室に備えられていて、当の分室の開架式の棚にもあった。リクエストに応じて配備され、何より、刊行直後、さらに受賞直後のフィーバーが収まった、ということだろう。柔道関係者はもとより、格闘技ファンや戦後社会史に興味のある人にとっては、なんとしても読みたい、読んでおくべき1冊だろう。

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興味があったのは、やはりプロレス草創期の伝説の一戦。それまで「外人対日本人」が興行の中心だった中での、昭和29(1954)年の力道山と木村の「真剣勝負」。木村による反則の金的蹴りに力道山が怒りの空手チョップを炸裂させ、木村が流血、ダウン状態となり、力道山がドクターストップによる一方的な勝利を挙げた試合である。

著者は、北大柔道部で、戦前の寝技中心の「高専柔道」の流れを汲む「七帝柔道」に打ち込んだ経験から、「柔道史上最強」とされる木村が、「なぜこれほど惨めで屈辱的な敗北という傷をその後の半生にわたって負い続けねばならなかったのか」、執念を持って追究していく。

読んだ章の中で「へー」と思ったことの一つは、講道館を設立した柔道の父、嘉納治五郎自身の柔道観だった。著者によれば、戦前において五輪招致にも尽力した嘉納は、柔道がスポーツ化し、競技化することを必ずしも良いこととは考えていなかった、という。殴る、蹴るといった打撃技である「当身」を乱取りや試合から除外したのも、当座の便宜的な措置と考えていたという。そうしないと、怪我や流血などでスムーズに乱取り(練習)が行えなかったからである。

考えてみれば、嘉納は古来の武術だった柔術から自身の「柔道」を確立していったものの、江戸時代1860(万延元)年の生まれである。武術としての柔道がスポーツ化することを、むしろ残念に思っていた面があった。嘉納は1938年に死んだが、1960年の東京オリンピックで柔道は正式種目となり、オランダのヘーシンクが無差別級で金メダルの栄冠に輝いた。

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