「人でなし」の人間学

あるコミュの「雑談コーナー」に書いたコメントのコピペです。

xxxさん

「何十年か生きていると、ごくたまに、善悪のタガが外れた、いわゆる”ひとでなし”に出会うことがあります。」

「ひとでなし」という言葉で連想したのは、多くの若者をはじめある種の共感を呼んだ秋葉原事件の加藤被告よりも、むしろ池田小学校事件の宅間守でした。上で書いたように、彼は僕らに、「人はそこまで悪魔的でありうる」ことを改めて思い知らせた。その彼は簡単には「絡みづらい」し、彼を理解しようとすることは容易でない。

しかし、「人でなし」もまた人間には違いない…。犯罪学者なのか、心理学者なのか、人間学者なのか、哲学者か、宗教家か、ジャーナリストか、独学者としてか、肩書きは何であれ、「人は彼を理解できねばならない」と思うようになりました。

『朝日平吾の鬱屈』も読んでみるつもりです(朝日平吾について僕は不勉強でしたが、この橋川コミュではおなじみの名前ですね)。ただ、過去の歴史上の人物であっても、関心が「アカデミック」な他人事になってしまっては面白くない。

xxxさんの「オレはトラヴィスだ―。」も「鏡張りの球体」にも、かつての多くの若者と同様に、僕にも響くものがあります。ただ、過去何十年かの時間と経験の堆積によって、感覚が鈍磨し、既視感を覚えることが増え、歴史上で初めてであるはずの「現在」に対し、かつてほど、また今の若い人たちのようには、ビビッドに感受できなくなっている…。

――それを言ってはおしまいですね。僕より少し年上の姜尚中でさえ、秋葉原事件を受けてあそこまで言ったのだし。肩書きは仮に独学者として、僕自身も、かつての自分や自分なりにとらえた現在に向き合っていこうと思います。

「政治」「政治学」「政治思想」というとき、公認済みの、国家権力や政党、政治家、思想家などだけを相手にするのでなく、姜尚中が言ったように、一人ひとりの人間存在に密接にかかわるような、いわば「人間学」を形成していく。中島岳志による秋葉原事件についての本は、その第一歩となったように思える。

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