「思想犯」としてのあさま山荘事件

手元にないが、以前たまたま近所の図書館から借りて読んだ本で知ったこと。著者は国選弁護人としてこの事件の弁護人を担当した弁護士だが、事件当時は幼くてこの事件のことをよく覚えていないという年齢の人である。

その弁護士によって初めて知ったのだが、この裁判では、刑事事件としての最も基本的な手続きが無視されたまま、有罪判決が重ねられていたという。

最も基本的なこととは、「誰が警官たちに向かって銃撃したのか」「どの地点から銃撃したのか」といったことが確定されないまま、判決が下されたというのである。

警察や検察のみならず裁判所にとってさえも、そんな「事実」など大した問題ではなかったということ。

その場所に立てこもった仲間は皆、同罪であると、判断されたのだろう。刑法や刑事訴訟法やその運用における「法律家としての常識」を超える決断がなされた。担当した検事や裁判官たちの意志は、いわば「国家意志」として機能したわけである。

幸い「治安維持法」も「国家反逆罪」もない現代日本において、司法権力が行えるぎりぎりの地点での行為なのかもしれない。

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