「電化」による世界観の変化

22日の日記「自然との距離…」の最後に、次のように書いた。

『「テレビ」「冷蔵庫」「炊飯ジャー」「電話」「エアコン」「水洗トイレ」「パソコン」「携帯電話」「CD」「DVD」――これらはすべて、僕の幼い頃は家になかった。萩原朔太郎や中原中也の生きた戦前に存在したのは、実質的に「電話」だけだろう。』

このうちテレビについては、作家で写真家の藤原新也は1980年代初頭の『東京漂流』で、戦後日本の私たちの生活様式やメンタリティを大きく変えたものとして取り上げていた。いわば日本の「家」において、「先祖」や「過去」や「死」を示すものとしてあった「仏壇」を片隅に追いやり、「現在」や「新奇なもの」「勝者」「売れているもの」を各家庭に送り込むメディアとして存在、機能するテレビ――。

実際には、テレビにも歴史がある。最初は白黒放送で、放送される時間帯も断続的だった。瞬時にして今のようなテレビになったわけではない。ただ、『東京漂流』が書かれた時からさえ、すでに20数年が経っている。「テレビがなかった時代」を知っている世代として、生まれた時からカラーテレビがある世代は、感性も違うだろうと思う。

他の電化製品等についても、それぞれ個人的経験を振り返り、社会史的回顧もできるだろう。例えば「冷蔵庫」では、子供の頃の数年間、電気冷蔵庫が入る前、毎日、氷屋さんから1貫だか2貫だかの氷を買って、入れ物だけの冷蔵庫に入れて食べ物を冷やしていたことがあった。

一つ一つ挙げていけば切りがない。ただ、こうした文明の利器すべてを当たり前として育てば、感性も世界観も違ってくるだろうと思う。

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