ウディ・アレンへの「憧れのまなざし」

映画監督のウディ・アレンは、ディキシーランド・ジャズのクラリネット奏者でもあって、映画を撮っている期間などを除いて、毎週月曜の夜にミッドタウンのマイケルズ・パブ(Michael's Pub)に出演していた(今はどうなのかは承知していないので、どなたかご存知であれば教えてください)。「ハリウッドには興味がない」と言い、「アニー・ホール」で世界中の映画人にとって大きな名誉であるアカデミー賞を受賞したとき、授賞式には出ずに、ここでクラリネットを吹いていた、というのは有名なエピソードである。

ニューヨークに住んでいた頃、僕もその演奏を見に(「聞きに」ではなく)行ったことがあった。数曲演奏し、しばらく休んでまた演奏するのだが、同じレパートリーの繰り返しだった記憶がある。この時の印象で最も強烈だったのは、クラリネットを吹いているウディ・アレンを見つめる、ニューヨーカーないしアメリカ人たちの「まなざし」である。「話の種に」くらいの軽い気持ちで行った僕とは、彼を見つめるその「視線」が違っていた。みんな白人の大人のアメリカ人たちである。なのに、その時ばかりは、スターを見つめるティーンエージャーたちのような、「うっとりとした」あるいは「食い入るような」視線であり、態度なのである――ただティーンエージャーと違うのは、キャーキャー嬌声をあげたり、体を揺らしたりしない点である。

欧米では一般に映画監督の社会的地位が日本より高いと言われているし、その中でも映画の本場アメリカだし、またニューヨークはアメリカ映画の舞台になることが最も多い土地らしい。

容姿は冴えない部類のウディ・アレンの肉体に潜む「才能」――ある水準以上の映画を毎年のように次々と作り続けている――へのファンのアメリカ人たちの憧れ。こんな視線の人々の渦中にいた経験は、唯一この時だけだった気がする。

この記事へのコメント

2006年07月01日 23:41
官能的な、夜ですね。
2006年07月02日 01:38
 この経験を「官能的な、夜」と表現するとは! そうですか。周りのアメリカ人たちにとってはそうだったのか。僕自身はむしろ、彼らを「あきれて、見ていた!」。だって、僕以外のすべての観客から見つめられているウディ・アレンそのものは、どう見ても(日本人の僕から見ても)さえない風采なのだから。
 ところで、「見ること・見られること」が、極度に官能的でありうることを語っていたのが、三島由紀夫の作品、中でも『金閣寺』だった。主人公がついには放火する金閣寺を見つめるまなざしもそうだが、それ以上に、内翻足という不具を抱える友人が、「不具者と絶世の美女は、見られることに疲れ果てている点で共通する」と語っていたことである。

あんらぎ
2006年07月02日 23:27
ウディ・アレンは最近スカーレット・ジョハンセンという21~3才の若い女性を起用して映画を撮っていますね。「ロスト・トランスレーション」という東京ロケの映画や、「真珠首飾りの女」だったか、画家のモデルになった女性の物語で好演していた女優です。

お気に入りの女優はずっと使い続けるというパターンが多いので、彼女もそうなるのかな

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